つれづれなる日記 @ maoo.jp

退屈な日々をより退屈な文章でだらだらと

生まれ変わる彼女のために

 自分は宗教とかそっち方面にはかなり無縁であり、特になにかを信仰しているということもないわけだ。そういう傾向がわりと強いらしい日本人の中でも特にそうであるのかもしれないが、日常生活の中でつごうにより自由に渡り歩いている。大変なことになった時には思わず神にも仏にもそれ以外にも祈りを捧げたりするし、クリスマスケーキを食べた数日後にはお神酒を飲んだりもして。古風な西洋人から即座に説教されそうないいかげんさだ。
 そんな自分でも宗教を身近に感じる状況というものはあり、たとえばそれは死に関する場面であったりする。仏教に縁がある場合がまあまあ多いわけだが、数年前に亡くなった愛犬に関しても基本的にそんなスタイルであったり。ご本犬もまた宗教に無縁だったと思うし、残された側の都合によってそんなことになってしまっているのだが、もしかして不愉快だったりするだろうか。自分が死んで再会できた時には怒られるかもしれない。
 ところで、仏教においては死したる存在の成仏がかなり重要視されているように思う。そうなるように供養する人が心がけなければならない…といった理解でそう大間違いでもないはずであり、だから「成仏=幸福」という公式めいた考え方もまず定着しているのだろう。ちなみにこういう部分を利用して相手をだまそうとするようなひどい人も世の中にはそれなりにいるようなので、お気をつけいただきたい。信じるものはだまされる危険もあるのだ。
 さて、この公式もどきを変形して「成仏できない(成仏できていない)=不幸」とすると、なんだかドロドロ度が急上昇する気もするし、だます・だまされる場においてはむしろこちらが便利に悪用される場合が多いようにも思えるのだが、とにかくこれもまず成立するはずだろう。そして、ここで気になる噂の登場だ。亡くなった存在のことをいつまでも思い出して哀しんだりすると成仏できないとかなんとか、まあそんな内容で。…どうなのかな?
 信憑性とかは不明であるし、そんなの確認できないししたところで意味もあまりないと思うけど、ちょっと気にはなる。愛犬のことに関わってくるから。彼女のことは一日に何度かは必ず思い出しているし、思わずなにもない空間に呼びかけたりもするからな。自分にとって今までで最愛の存在であるだけに、なんだかんだでまだ依存しているということなのだろう。でも、それで彼女が不幸になるかもしれないなら、解放してあげるべきなんだろうな。
 そんなわけで、まずは声を出して名前を呼ぶのはやめようと決意したのだが、実のところすごく苦労している。意識せず一日に何度も呼びかけていたのね、今まで。ごめん、俺がんばるからもうちょっと待って。